南国通信 楽園からのらくがき 豪海倶楽部  

チューク諸島の海から

戦争が終わるまでの約30年間、ミクロネシアは日本の統治領だった。当時の植民地であった、樺太、満州、朝鮮、台湾、に加え、この南の島々が南洋信託統治領(通称・『南洋庁』)として日本に統治されていたのだ。パラオにその政庁が置かれ、チュークは海軍や漁業の基地として発展していった。諸島内の島々には次々と学校が建てられ、島民の日本語教育が徹底して行われた。1920年(大正10年)に実施された国勢調査では、すでに3,300人以上の日本人がこのチューク諸島に住んでいた事が記録されている。

現在、地図上で区分される“ミクロネシア”には、5つの国家と2つの地域が存在する。そこには長い間に培われてきた独自の文化と独自の言語がある。チューク諸島はその中の一つ、ミクロネシア連邦という国に属する。ミクロネシア連邦とは、ポンペイ州、ヤップ州、コスラエ州と、このチューク州の4州からなる連邦国家である。この4州は同じ国家でありながら、それぞれにまた違った言語を使っている。ポンペイ語、ヤップ語、コスラエ語、そしてチューク語である。

彼等の共通語(公用語)は英語であり、今では殆んどの世代が英語を話す。終戦から数えて60年の間、学校では小学1年生から英語教育が行われている。しかし、戦争を体験し、日本の統治時代を生きた老人達には日本人同様、英語はなかなか馴染めない。そして、そんな老人達の国内の共通語はなんと日本語である。当時、日本語学校を卒業した彼らの殆んどの者達が、チューク諸島内の会社、お店、役所、軍隊、あるいは個人宅、等で働いた。そうして、生の日本語を身に付けていったのである。戦後60年経った今でも、彼等は流暢に日本語を話す。とても丁寧な戦前の日本語だ。この30年間に及ぶ日本の統治時代に、様々な日本の文化がチュークの社会に根付いていった。言葉もその一つである。

チューク語で“飛行場”の事を『カッソーロ』という。当時、チュークには飛行場は存在しなかったし、彼等は飛行場を知らなかった。だから言葉も無かった。日本時代になって、チューク諸島のあちこちに飛行場建設が始まった。しかもそれは、軍事基地としての『滑走路』建設だった。そうして、チュークに一つの言葉が生まれた。『カッソーロ』である。チューク語の『カッソーロ』は飛行場全般を意味する。チュークの『外来語』だ。

このような日本語からの外来語は優に400を超える。デンキ、デンワ、デンポウ、ガッコウ、センセイ、セイト、ビョウイン、カンゴフ、ニュウイン、ウンドウカイ。この運動会に至っては、ヨーイドンから始まり、レンシュウ、イットウ・ニトウ・サントウ、などあらゆる運動会用語が今も使われている。その他にもシャシン(カメラや写真の事)、ゾウリ、ジドウシャ、ナベ、カマ(釜と鎌も)、マナイタ、ショッキ、オボン、ドビン(やかん)、マホウビン、等など。数え上げたら切りが無い。近代文明の利器は殆んど外来語と考えてもあながち間違いではない。そしてこのような『外来語』は、このチュークに限らず、他のミクロネシア全域に共通の言葉でもある。これでもう、皆さんはすぐにミクロネシア語の達人になれる事、受けあいだ。

このような『外来語』の中で非常にユニークなものがいくつかある。

その一つに、『チチバンド』がある。ブラジャーの事だ。戦前の日本語からきている。チューク語では『チチバンド』となる。大相撲の小錦を思わせるような、チュークの女性の豪快なオッパイには、ブラジャーと言うよりも、この『チチバンド』という言葉がなぜかピッタリ来る。

『サルマタ』:言わずと知れた男のパンツの総称である。と、皆さんもお思いだろう。ところがどっこい、そうでないところがおもしろい。なんと、男のパンツも含めた、女性のショーツ(パンティー)の事をチューク語では『サルマタ』と呼ぶ。かわいいチュークの女性が『私のサルマタ・・・・・・』などと言う下りは、何度聞いても滑稽なものだ。

『ベンジョ』:トイレの事である。ここで不思議に思うのはチューク人とて当然同じように排泄行為は行う。なのに、なぜトイレに相当する言葉が無いのか?答えは簡単である。元来、彼らはトイレというものを作らなかった。もよおせば気軽にその辺のジャングルや海岸で自然に行っていたのだ。我々が俗に言うあの“野糞”(ノグソ)というやつだ。(驚く無かれ、現在でもかなり多くの人達がそうである!)日本人がやってきて初めて、排泄行為をする場所“便所”を作ったのだ。それで、チュークに『ベンジョ』という言葉が生まれたのである。

『ハダシ』:これも、えっ、なぜ?と思う言葉だろう。歩くことは人類共通の行動パターンであるのに、なぜ? なぜなら、彼等の日常はもともとハダシの生活であり、履物はこの世に存在しなかった。“ハダシ”という言葉は履物があってはじめて存在する概念である。履物が全くなかった彼等には“ハダシ”という概念は当然生まれようがなかったのである。日本人が初めて履物を持ち込み、それによって『ハダシ』という言葉が生まれたのである。

戦後60年が経ち、日本時代を知る老人達は年を追う毎に少なくなっている。当時、日本人社会の中で生きて来た彼らの意識・行動は、のんびりとした島社会の中にあってもなお、日本人のそれに近いものがある。世代が替わり、かつての『日本の社会』は、このチュークから少しずつ遠のいていく。古き良き言葉を残して。。。

反面、現代人達は、これまで様々な文明をこの“ハダシの島”に持ち込んだ。そして島人達は、この様々な文明の履物を身にまとい、その暮らし振りを少しずつ変え始めている。島に根ざした“ハダシの文化”は徐々にではあるが確実に廃れ初めている。。。

日本が息づく南の島・チューク諸島
末永 卓幸


末永
末永 卓幸

1949年1月生まれ
長崎県対馬出身

立正大学地理学科卒業後、日本観光専門学校に入学・卒業。在学中は地理教材の収集と趣味を兼ねて日本各地を旅する。1973年、友人と4人でチューク諸島を1ヶ月間旅行する。1978年チューク諸島の自然に魅せられ移住。現地旅行会社を設立。現在に至る。観光、ダイビング、フィッシング、各種取材コーディネート、等。チュークに関しては何でもお任せ!現地法人:『トラックオーシャンサービス』のオーナー。

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